「失われた30年」。日本経済を語るうえで、この言葉を耳にしない日はない。かつて日本企業は、「強い現場」を武器に世界をリードしてきたが、グローバル競争の激化により、その競争優位性は徐々に揺らぎ、従来の経営手法のみでは持続的な成長を実現することが難しい時代を迎えている。
こうした危機感を背景に、人的資本経営という名のもとに、改めて「人」そのものを競争力の源泉として捉え直す動きが加速している。2023年3月期からは、有価証券報告書における人的資本情報の開示が義務化され、企業には人への投資について社会へ説明する責任が求められるようになった。その中で、「ウェルビーイング」は無形資産を象徴する重要な要素として位置づけられ、従業員の心身の充足は、「あれば望ましいもの」ではなく、「企業価値を高めるための重要な経営課題」となっている(経済産業省、2024)。
ウェルビーイングというと、「社員が幸せに働くこと」や「福利厚生の充実」を思い浮かべる人も多いだろう。しかし、本来、ウェルビーイングはそれだけを意味するものではない。仕事にやりがいを感じ、自分らしく能力を発揮しながら働き続けられる状態や人生の意味まで含めたより広い概念である。
研究員コラム
2026年8月4日
【連載】成果を出す会社は社員の“心”に投資している!
第1回:なぜ今、ウェルビーイングなのか
では、なぜ今、多くの企業がウェルビーイングに注目しているのだろうか。この原因を探る興味深い研究がある。225本の研究を統合したLyubomirskyらの論文によると、幸福度の高い人ほど、仕事の成果や上司からの評価、組織への貢献、対人関係、健康など、さまざまな側面で優れた成果を示すことが報告されている(Lyubomirsky, King & Diener, 2005)。いわば、ウェルビーイングが「社員のため」だけではなく、「企業のため」にもなることが科学的エビデンスの蓄積によって明らかになってきたため、ウェルビーイングが今日の重要な経営課題として浮上しているのである。
こうした考え方は、実際、日本企業の人的資本経営にも反映されつつある。日本企業の人的資本開示を分析したところ、企業価値の高い企業ほど、制度を整備するだけではなく、一人ひとりを尊重する組織風土や一体感を高める取り組みを重視していることが明らかになった(Dounishi & Zushi, 2026)。つまり、人への投資とは、研修や福利厚生を充実させることだけではなく、社員一人ひとりがいきいきと働ける環境をいかに創り出すかという視点がこれまで以上に重要になっているのである。
他方で、日本企業ではウェルビーイングへの関心は高まりつつあるものの、その取り組みはウェルビーイングを維持するための予防策に偏りがちであるとされている(日本生産性本部、2023)。ただ、本来、人的資本経営が目指すのは、問題を減らすことに限らない。マイナスをゼロにするのではなく、一人ひとりの力を引き出し、組織全体の成長へとつなげる「プラスを生み出す投資」が求められているのだ。
では、社員のウェルビーイングを積極的に高めるために、企業は何に投資すればよいのだろうか。その鍵となるのが、近年、世界中で注目されている「心理的資本」という考え方である。目に見えるスキルや知識だけではない、「こころの資本」がこれからの企業の競争力を左右する可能性を秘めている。
次回は、この「心理的資本」とは何か、そして、なぜ今、多くの企業が社員の“心”に投資し始めているのかについて探ることにしよう。
参考文献
経済産業省(2024)「人的資本経営の現状・課題とトップランナーたちの取組」(https://www.meti.go.jp/policy/economy/jinteki_shihon/pdf/toprunners.pdf,2026 年 7月22日閲覧)。
日本生産性本部(2023)「『メンタルヘルス』の取り組みに関する企業アンケート調査結果」(https://www.jpc-net.jp/research/assets/pdf/b9d01383c6bb435731afd9d9d94b790c_4.pdf,2026 年 7月22日閲覧)。
Dounishi, H., & Zushi, N. (2026). Human capital disclosure and corporate value in Japanese firms: A text mining. International Business Research, 19(3), 1-16. https://doi.org/10.5539/ibr.v19n3p1
Lyubomirsky, S., King, L., & Diener, E. (2005). The benefits of frequent positive affect: Does happiness lead to success? Psychological Bulletin, 131(6), 803-855. https://doi.org/10.1037/0033-2909.131.6.803
本連載では、組織パフォーマンスにも影響する、企業で働く人々の心理的資本とウェルビーイングの関連性について、神戸大学大学院経営学研究科特命助教で、インソース総合研究所客員主任研究員も務める堂西 晴香が解説します。2027年3月まで毎月初旬に公開いたします。
・第1回:成果を出す会社は社員の“心”に投資している!なぜ今、ウェルビーイングなのか